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Concept

本福寺は、新元号「令和」で注目を集めた大伴旅人が、太宰府防衛のための奈良から派遣され築いた日本最古の朝鮮式山城「基肄城」のある基山(きざん)の南麓に位置しています。
昔から、「基肄城」のある基山(きざん)は仏法興隆の場として、真言密教(東密)、天台密教(台密)の修験道の山伏たちは、基山にこもり瀧に打たれ、山をこえ峰をこえての山林修行を行い、当時の山岳信仰の最先端を極め、修験道山伏たちの修行場・禊の場として栄えました。
宝永6年(1706)、貝原益軒の『筑前国続風土記』によれば、城山千坊・城山四王院と記され、その地が朝鮮式山城基肄城から修験道の聖地へと展開し1000もの寺院が点在していた事を物語っています。
今でも本福寺の瀧場には宝篋印塔(ほうきょういんとう)・60基の五輪塔・板碑が立ち並んでいる事から、基山が修験の道場となった事を物語っています。山麓には不動寺・寺谷・仁蓮寺・天台寺などの寺名のつく集落や、仏谷・道場原などの地名は、その遺称であると伝えられています。そのような風土の位置を中山とも称され、光明念佛身語聖宗 総本山 中山一之瀧 本福寺が誕生しました。また、本福寺の瀧場は、今から1350年前に修験道の山伏たちが修行した聖地です。云うならば、本福寺は1350年続く祈りの大聖地なのです。また、弘法大師空海は唐より密教を持ち帰り、太宰府観世音寺(かんぜおんじ)にて3年程滞在していたとされます。その期間、観世音寺から13kmの本福寺の瀧場に山林修行を好んだ弘法大師空海は瀧行なされたと伝わります。これが、本福寺の寺号である「中山一之瀧」の由来です。
また、難病・大病の秘薬として瀧場の水を飲む事で不治の病が治ったとお話をされる方もいらっしゃいます。
今でも商売繁盛・金運祈願のご利益を求めて来る方々が、九州・西日本を中心に後を絶ちません。

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